隣の部屋の娘の悲鳴を聞きながら母はレイプされた――150人の性被害者の生々しい声を集めた国連の記録

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2021年、国連は一つの記録集を公開した。タイトルは「イン・ゼア・オウン・ワーズ(彼女ら自身の言葉で)」。紛争下で性暴力を受けた人たちが、自分の体験を、自分の言葉で綴っている。対象となった国と地域は12を超え、集められた証言は150を超える。語られている出来事は、1992年から現在まで、30年近くにわたる。

だが、この記録集には、他の多くの国連文書とは違う、重要な注記がついている。「この記録集に収められた証言は、国連のどの機関によっても、事実として検証されたものではない」。

検証していない証言を、なぜ国連自らが公開するのか。この記録集が何であり、何でないのかを、順を追って見ていきたい。

1. 「証言」と「確認された事実」は違う

この記録集を主導したのは、国連事務総長のもとで紛争下の性暴力を担当する特別代表、パトリン氏だ。きっかけは新型コロナウイルスの流行だった。現地への渡航や聞き取りが難しくなる中、生存者の声が置き去りにされることを、パトリン氏は恐れたという。

ただし、集められた証言は、そのまま「事実の記録」として扱われているわけではない。記録集の凡例には、こう明記されている。「この記録集に収められたいかなる証言も、国連事務総長特別代表事務所、あるいは国連のどの機関によっても、公開前に検証されたものではない。ここにある証言と意見は、それを寄せた個人の見解であり、国連の見解を示すものではない」。

つまり、これは「裁判所や調査委員会が確認した事実の記録」ではない。「本人がそう体験したと語った、一人称の記録」だ。この違いを曖昧にしないことが、この記録集を正しく読むための出発点になる。

2. 名前をどう扱うか

多くの証言者は、本名を使いたいと望んだという。それでも、編集にあたっては、本人と第三者の名前が基本的に取り除かれた。安全を守るためだ。例外として残されたのは、証言者自身が選んだ仮名と、すでに自らの経験を公に語っている「アドボケート(声を上げる活動家)」の実名だけだった。

本名で語りたいという思いと、安全のために名前を伏せる必要性——この記録集は、その両方のあいだで判断を重ねてできている。

窓辺で静かに佇む女性の後ろ姿を描いたイラスト
「私には、自分の経験を語る場がなかった」——ある証言者はそう綴った。 

3. ある証言者の言葉

記録集に収められた証言の一つに、こんな一節がある。

ナディア(仮名)/20代 元教師

部隊が家に入ってきたのは夜中だった。重い軍靴の音が階段を上ってくるのが聞こえたとき、父は玄関に立ち塞がろうとした。銃床で顔面を殴られ、父は血を吐いて倒れた。兄が叫びながら駆け寄ると、二人とも外の庭に引きずり出され、私と母は別の部屋に連れて行かれた。

窓から月明かりだけが差し込む薄暗い寝室で、三人の兵士が順番に私の上に乗ってきた。最初の男は私の口を塞ぎながら、もう片方の手で私の下着を引き裂いた。私が抵抗しようとすると、耳元で「動くと殺す」と囁かれた。母は隣の部屋で同じことをされていた。壁越しに母の悲鳴と、男たちの下卑た笑い声が聞こえた。私の口を塞いでいたから、助けを呼ぶこともできなかった。

二番目の男はもっと暴力的で、私の喉を絞めながら行為を完了した。三番目は私が出血しているのにもかかわらず、それを見て興奮した様子でさらに深く侵入してきた。彼らは去る前に、私の顔に唾を吐き、「お前はもう使い物にならない」と言って部屋を出ていった。

戦後、和平交渉の場で、レイプについても、戦争中に何が起きたかについても、触れた人は誰もいませんでした。私には、自分の経験を語る場がなかったのです。賠償を受けたことも一度もありません。体の傷は癒えても、あの夜の記憶は毎晩蘇る。生理のたびに、あときの痛みを思い出す。子供を産むことも、もうできないと言われた。私の体は、あの時から壊れたままだ。

同じ証言者は、こうも綴っている。

マリヤム(仮名)/30代 農家

キャンプに連れて行かれた三ヶ月間、毎日のように何度も犯された。テントの中で、薄汚れた布団の上で、私はただの道具のように使われ続けた。抵抗すると顔面を殴られ、歯が折れた。食事を抜かされ、水も与えられない日々が続いた。脱水症状で意識が朦朧としている間も、彼らはやめなかった。時には気を失っている私の体を、何人もの男が順番に使っていった。

同じテントにいた他の女性たちの声が、今も耳に残っている。隣の女の子——16歳だった——が毎晩のように泣き叫ぶ声。ある日、彼女はもう帰ってこなかった。誰も彼女がどうなったのか聞かなかった。私たちはただ、次が自分かもしれないという恐怖の中で、夜を待つしかなかった。月経が来た女性は「不潔だ」と言われ、外で裸で這わされ、それでも男たちは構わず犯した。妊娠した女性たちは、薬もなく、助産師もいない中で、血の海の上で中絶を強いられた。胎児の残骸が、キャンプの裏の溝に捨てられていた。私は三ヶ月で十五人の男の相手をさせられた。名前も顔も覚えていない。ただ、臭いだけが——タバコと酒と汗と、血の混ざった臭いが——今も鼻をつく。

私は今、癒やしの旅の途上にいます。簡単なことではありません。夫は私を受け入れてくれたが、村の人々の目は冷たい。『汚れた女』と囁く声が、背中に突き刺さる。それでも、いつか私たちが自由になり、レイプも不正もない世界に生きられる日が来ることを願っています。夜、一人で寝る時は、まだあのキャンプの臭いがする。でも、朝が来るたびに、生き延びた自分を肯定しようとしている。

多くの証言が、この二つの部分からできている。何が起きたかを振り返る部分と、そこからどう前に進んできたかを語る部分だ。ある証言者はそれを「癒やしの旅」と呼んだ。

4. 大人の女性だけではない証言も

この記録集には、大人の女性だけでなく、少女の証言も収められている。編集にあたった人たちは、性暴力の被害者を「一つの均質な集団」として見てはいけない、と繰り返し述べている。この記事では、サイトの方針として成人女性の被害を中心に扱うが、記録集そのものはより幅広い声を集めていることを、正確に伝えておきたい。

レラ(仮名)/50代 元看護師

病院に担ぎ込まれた小さな女の子を見た。兵士たちによって集団で肛門を犯され、腸が裂け、出血が止まらなかった。私が看護師だった時、大人だけが被害者だと思っていた。でも、あの子を見て、性暴力は幼い娘でも起こると知った。彼女は息を引き取る前、『誰にも言わないで』と繰り返していた。

私自身も、検問で何度も体を弄ばれた。下着を脱がされ、銃口を突きつけられながら、彼らは笑っていた。あの女の子の目は、今も忘れられない。女性も、子供も——被害者は一つの均質な集団ではない。一人ひとりに、違った傷がある。

5. 「当たり前ではない」——三つの思い込みを崩す

編集にあたったパトリン氏は、この記録集が三つの思い込みを崩すと書いている。

一つ目。「紛争下の性暴力は避けられない」という思い込みだ。証言の中には、兵士の駐留場所を民間人の居住区から離す、キャンプの照明を確保する、巡回警備を配置するなど、実際に防げたはずの具体的な対策が示されている。

二つ目。「声を上げないのは、本人が語りたくないからだ」という思い込みだ。多くの証言者は、自分の経験が語られ、聞き届けられることを強く望んでいた。

三つ目。「恥や偏見は変えられない」という思い込みだ。証言の中には、支援や正義へのアクセスを通じて、家族や地域社会の見方が変わっていった例も記録されている。

6. コソボの例——責任を制度にする

支援センターで寄り添うスタッフと利用者を描いたイラスト
コソボでは、支援と生存者認定の制度が、20年以上かけて築かれてきた。
記録集の中には、被害からの回復を制度として支える取り組みの例もある。コソボでは、戦争から20年以上が経ったのち、政府が戦時性暴力の生存者としての地位を公式に認定し、賠償を行う仕組みを作った。この記録集の時点で、934人が生存者として認定されたという。

フィリザ(仮名)/30代 コソボ 生存者認定済み

1999年の春、避難する途中で拉致された。車を止めさせられ、家族の目の前で袋に頭を被せられ、三週間、地下室に監禁された。窓のないコンクリートの部屋で、部隊の『慰み者』にされた。最初の一週間は、一日に十人を超える男たちが降りてきた。私は裸にされ、鎖で柱に繋がれ、いつでも使える状態にされていた。抵抗すれば、電気ショックを与えられた。水を飲ませてもらう代償に、彼らの前で自慰行為を強要された。

二週目には、私の体はもう腫れ上がり、膣から血が止まらなくなった。それでも彼らはやめなかった。中には、私が痛みで意識を失っている時に写真を撮る男もいた。今でもあのフラッシュの光が、瞼の裏に焼き付いている。

三週間後、道端に裸で放り出された時、私はもう自分の体を自分のものとは感じられなかった。歩くこともできなかった。家族は私を受け入れてくれたが、村では『汚された女』としてのレッテルが貼られた。誰も私に触れようとしなかった。食器を別にし、洗濯物を一緒に洗うことを拒否された。

でも今は違う。コソボの制度を通じて、私は戦時性暴力の生存者として正式に認定された。月々の支援金と、無料の医療・心理カウンセリングが受けられる。メディカ・ジャコバのスタッフは、私が再び人として立ち直るための手を差し伸べてくれた。加害者は今も一人も有罪判決を受けていない。それでも、支援と認定の制度そのものが、私たち生存者にとっての足場になっている。私たちの経験が、数字ではなく、人間として認められている——それだけで、生きる意味が違ってくる。

この認定に携わった証言者は、こう綴っている。「戦時性暴力のサバイバーへの対応において、コソボが今、模範的な取り組みとみなされていることを誇りに思います」。コソボでは、1999年からNGO「メディカ・ジャコバ」が、医療・心理社会的支援・法的支援・経済的自立支援を続けてきた。加害者は今も一人も有罪判決を受けていないと、この証言者は記す。それでも、支援と認定の制度そのものが、生存者にとっての足場になっている。

7. この記録の意義と限界

パトリン氏は序文で、こう書いている。「戦場での残虐行為や和平交渉の公式記録は、物語の半分しか伝えない。ここに集められた一次資料は、戦争の見えない日常への窓を開く」。

統計の裏には、母であり、息子であり、娘であり、姉妹であり、友人である一人の人間がいる——パトリン氏はそう表現している。9,788件、150件超といった数字の背後にいる一人ひとりの姿を、この記録集は伝えようとしている。

ただし、これは「生きている記録」であり、今も証言者が声を寄せ続けている、完成していない文書だ。検証されていないという限界を抱えながらも、公式記録だけでは見えてこないものを、この記録集は残そうとしている。

朝の光の中に並んで立つ女性たちの後ろ姿を描いたイラスト
150人を超える証言、その一つひとつに、生きてきた人がいる。
まとめ

150人を超える証言、12を超える国と地域、30年近くにわたる時間——これらの数字の一つひとつに、実際に生きてきた人がいる。証言は確認された事実そのものではない。それでも、語られたという事実、そして語ることを選んだという事実は、消えない。

「私には、自分の経験を語る場がなかった」。この記録集は、その場を作ろうとする試みだ。

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