高校の体育館で少女たちはレイプされた——1992年ボスニア、民族浄化の中で性暴力を受けた少女たち

Uncategorized
1992年のボスニアで一人立つ少女を描いたイラスト
1992年、フォチャ近郊。戦争が始まり、多くの家族が森へ逃げた。 ※この画像はAIが生成したイメージで、実在の人物ではありません。

1992年、ボスニアのフォチャで戦争が始まった。

フォチャは、当時のユーゴスラビアが分裂していく中で内戦に巻き込まれた、ボスニア東部の小さな町だ。この町の名前は、その後、国際社会が「性暴力を裁く」という新しい一歩を踏み出すきっかけになった場所として、法律の歴史に残ることになる。

この記事では、当時15歳だった一人の少女——裁判記録の中では「Witness 87」とだけ呼ばれる女性——の証言を中心に、フォチャで何が起きたのかを伝えたい。

15歳の少女に、何が起きたのか

Witness 87は、フォチャ近郊のトロシャニという村に住む、ボスニア・ムスリムの少女だった。1992年4月、町に銃声と爆発音が響き始めた。家族は家を離れ、森の中に隠れて暮らすようになった。d

だが、隠れ続けることはできなかった。同年7月3日、セルビア人勢力が家族の隠れていた場所を襲った。兵士たちは、男性と、女性・子どもを引き離した。彼女の父親は、このとき殺された。彼女はその後、二度と父親に会うことはなかった。

学校や体育館に、閉じ込められて

そこから彼女は、いくつもの場所を転々とさせられることになる。

最初に連れて行かれたのは、ブク・ビェラという場所のホテルだった。そこで兵士から性暴力を受けた。続いて移されたフォチャの高校では、約2週間、複数の兵士から繰り返しレイプされた。その後、「パルチザン」という名のスポーツホールに移され、ここでも複数回、性暴力を受けた。

さらに、カラマンという人物の家に約2か月間閉じ込められ、ほぼ毎晩のように性暴力が続いた。その後、フォチャ市内の建物に約4か月間留め置かれた際には、銃を突きつけられ、服を脱がされて踊らされるといった、尊厳を踏みにじる扱いも受けている。最後にはモンテネグロの町まで連れて行かれ、性的な奴隷状態、そして強制的な労働を課される日々が続いた。彼女がようやくそこから逃げ出せたのは、1993年4月のことだった。

彼女は一人ではなかった。同じ頃、フォチャの高校には約8人の少女が、パルチザン・スポーツホールには女性や子どもを中心に約60人が、同じように閉じ込められていた。その中の一人、裁判記録で「Witness 50」と呼ばれる、当時17歳未満の少女も、同じ場所を転々とさせられ、繰り返し性暴力を受けたと証言している。ある加害者は、彼女に対してこう言ったという。「もっとひどいこともできたが、お前が自分の娘と同じくらいの年齢だったからやめておいた」。

フォチャでは、こうして拘束された女性や少女が、少なくとも数十人にのぼる。中には12歳、13歳という子どももいた。何か月も民家に閉じ込められ、繰り返し暴行を受け、中には他の兵士に「引き渡される」ように扱われた者や、命を落とした者もいたと記録されている。

互いに寄り添う女性や少女たちを描いたイラスト
同じ頃、フォチャの高校やスポーツホールには、多くの少女や女性が閉じ込められていた。 ※この画像はAIが生成したイメージで、実在の人物ではありません。

なぜ、女性や少女が狙われたのか

フォチャで起きたことは、たまたま個々の兵士が暴走した結果、というだけでは説明がつかない。この町ではセルビア人勢力の支配のもと、非セルビア人の住民全体を追い出すための、組織立った動きがあったことが記録されている。女性や少女への性暴力は、その中で繰り返し行われた。

「民族浄化の武器」という言葉について

ここは、慎重に説明したい部分だ。

「性暴力は民族浄化の武器として使われた」という言葉を、そのまま単純に受け取ってはいけない。この事件を裁いた国際法廷(ICTY)自身が、はっきりとこう述べている。「セルビア人勢力の兵士たちに、レイプをせよという命令が出されていたという十分な証拠はない」。つまり「軍全体が組織的にレイプを命令していた」という意味での『武器』ではなかった、ということだ。

その一方で、法廷はこうも認定している。レイプは、兵士たちにとって「恐怖を与えるための道具」として使われていた。そして、その道具を「いつ、誰に対して使ってもよいという、事実上の自由」が兵士たちに与えられていた、と。つまり、上からの命令ではなく、非セルビア人を追い出すという大きな流れの中で、現場の兵士たちが処罰されることなく性暴力を振るえる状況が、作られていたということだ。

「命令されたから」ではなく、「止められなかったから」「見過ごされていたから」起きた被害だった——このニュアンスの違いは、この事件を理解するうえで、とても重要だ。

法廷で語られた言葉

Witness 87は、2000年4月と10月、法廷に立った。何年も経ってから、自分の身に起きたことを、他人の前で言葉にしなければならなかった。彼女はこう証言している。

「これから先の人生、ずっとあの記憶を持ち続け、あの時感じた痛みを、今も感じ続けるでしょう。それは、決して消えることがありません」

この言葉は、判決文にも、その後の解説記事にも、繰り返し引用されている。法律が有罪を認定しても、彼女の中の痛みそのものを消すことはできない。それでも、彼女は法廷で語ることを選んだ。

戦争を生き延びた女性の静かな姿を描いたイラスト
2000年、彼女は法廷に立ち、自らの経験を言葉にした。 ※この画像はAIが生成したイメージで、実在の人物ではありません。

加害者はどう裁かれたのか

2001年2月22日、国際刑事裁判所は判決を下した。ドラゴリュブ・クナラツ、ラドミル・コヴァチ、ゾラン・ヴコヴィッチの3人が、レイプと拷問の罪で有罪となった。クナラツとコヴァチは、さらに「奴隷化」の罪でも有罪とされた。コヴァチには、人としての尊厳を踏みにじった罪も加わった。刑期は、クナラツが28年、コヴァチが20年、ヴコヴィッチが12年だった。

この裁判が、国際社会に残したもの

この裁判は、国際的な刑事法廷が「レイプそのものを人道に対する罪として」有罪を認定した、初めてのケースだった。また、「性的な奴隷状態」も、通常の奴隷労働と同じように「奴隷化」の罪にあたると、初めて明確に認められた裁判でもある。誰かを所有物として扱う書類がなくても、相手の自由を奪い支配していれば、それは奴隷化にあたる——この判断が、ここで確立された。

さらにこの裁判は、「レイプとは何か」という国際法上の定義そのものにも影響を与えた。被害者が体を張って抵抗したかどうかではなく、その場に置かれていた状況そのものが、同意などありえない状況だったかどうかで判断すべきだ、という考え方が、ここで示された。

未来へ向かう女性の姿を描いたイラスト
この裁判は、国際社会が性暴力を裁くための一歩となった。 ※この画像はAIが生成したイメージで、実在の人物ではありません。

数字ではなく、一人の人生として

フォチャで何が起きたかは、今では判決文という「法律の言葉」で記録されている。だが、それだけで終わらせてはいけない。

Witness 87にとって、あの経験は今も続いている。「決して消えることがない」と、彼女自身が語っている。法廷が有罪を認めたことは、彼女の痛みを消すためではない。何が起きたかを、社会全体がきちんと認め、責任を負うべき人に責任を取らせるためだ。そしてそれは、同じような経験をした他の人たちが、いつか自分の言葉で語れるようになるための、一つの道でもある。

出典

  • International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia (ICTY), “Witness 87”, icty.org
  • International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia (ICTY), “Witness 50”, icty.org
  • ICTY, “Judgement, Trial Chamber II: Kunarac, Kovač and Vuković case”, 2001年2月22日, icty.org
  • ICTY, “Foča” (Bridging the Gap with Local Communities), icty.org
  • ICTY, “Landmark Cases” (Crimes of Sexual Violence), icty.org

コメント

タイトルとURLをコピーしました