被害規模
1945年の1月から8月までの間に、ドイツは歴史上、最悪の集団レイプ事件を経験しました。
ここで今から語られることは、すべて実際の被害者や目撃者がいたり、病院等の記録に基づいています。ですが、あまりに凄惨なことばかりなので、苦手な方は見ないでください。
過去、軍隊は戦場では多くの強姦を行っていますが、ベルリンの場合、8歳の小さな幼女から80歳の老婆まで、市内のほとんどの女性が被害を受けています。
ロシア兵が犯した女性の正確な数は、多くが報告されていないため不明です。
強姦被害者の汚名を浴びるのを恐れ、女性たちの多くが名乗り出なかったこと、被害者が死んだためです。
最も頻繁に引用されている数字は、ベルリンで10万人、ドイツ全体で200万人でがレイプされたというものです。これは公文書館に保管されている医療記録から推定された統計です。
またドイツ国内だけでなく、ウィーンでは7万から10万人、ハンガリーでは5万から20万人。
さらには、ナチス支持であったルーマニアとブルガリアだけでなく、ポーランド、チェコスロバキアで数千のレイプがあったとされています。
当時のベルリンの状況
当時、ベルリンは実質的に男性のいない都市でした。ほとんどの若者は戦争に駆り出され、男性は子供と老人しかいなかったのです。
ドイツ国内に残った女性の人口は200万人に膨れ上がり、東部から逃亡した難民でさらに女性が数千人増えました。そこに飢えたロシア兵が襲いかかったのです。
アメリカとイギリスに遅れをとった赤軍は焦っていました。そんなソ連兵が、憎しみと復讐心に満ちてベルリンに入りました。
レイプ実行の詳細
当時のロシア上級司令部は、末端部隊にまで「ベルリンのパーティ」と称し、暗黙でドイツ女性を強姦してもいい日を設けていたと言われます。
ロシア兵士の一人が見張り、残りの兵士達が順番に襲いかかっていく光景が、ベルリンのいたるところで展開されました。
家々の窓ガラスがすべて空襲や爆撃で吹き飛んでいたので、夜ごとに女性の悲鳴が聞こえてきたのを、ベルリン市民ははっきり覚えています。
男性はどうすることもできず、ただ見ていることしかできませんでした。敗者であるドイツ人が抵抗したら、問答無用で即射殺だからです。
ロシア兵は女性たちを殴りつけ、機関銃を突きつけ、順番を守って女性を犯していきました。当然、避妊など考える者はいませんでした。
ロシア兵たちは、ドイツ人の住む綺麗で損傷のない白い家を見るのが大嫌いでした。玄関先に植えられた薔薇の花を見て、ある兵士はこう語っています。
「私は彼らに苦しんでもらいたかった。私は彼らの涙を見たかったのです。私たちは復讐のためにドイツに来たのですから」
「隣家で女性が路上に引きずり出され、家から持ち運ばれたマットレスの上で、女性がレイプされるのを目撃しました」とある住民は語っています。
通りで荷馬車の車輪に縄でくくりつけられ、犯された女性もいます。すべての家具、ワードローブ、トランクは銃剣とライフルで破壊されました。
男たちはただ見守らなければならず、抵抗すれば射殺されました。ロシア兵は、男性に強姦を見ているように強制しました。それはドイツ人に「屈辱を強制する」ことを意図していました。
あるドイツ人の若い科学者は、恋人の18歳の少女が、赤軍将校に拳銃の銃口を無理やり彼女の口に突っ込まれ、レイプの間中、そのままにしていた光景を無理やり見させられました。
昼夜を問わず、略奪するロシア兵が家に出入りし、両親の前で娘を、子供たちの前で母親を強姦しました。
幼い我が子を守ろうと、子供に覆いかぶさった母親を、そのまま背後からレイプしたロシア兵もいたそうです。
酔っぱらった赤軍兵士は、ライフルと機関銃で武装して家に押し入り、幼い姉妹を強姦し、抗議をした両親をライフルで殴り倒しました。
12歳の少女の母親である30歳の若いドイツ人女性は、ロシアの兵長の足元にひざまずき、娘ではなく、自分を連れて行くように懇願しました。
しかし、彼女の祈りは叶いませんでした。
兵長は顔を歪めてニヤニヤ笑いました。部下の兵士の一人がブーツで母親の顔を蹴り上げ、「くすんだファシストの豚め!」と叫び、若い母親は仰向けになりました。彼女を殴った兵士は、拳銃で彼女の頭を撃ち抜きました。
母親を失った小さな娘は、母親の殺人犯によって戦車の後ろに引きずり込まれました。他のロシア兵士も加わり、30分の間、幼い少女の悲鳴とうめき声が鳴り響きました。
その後、路上には自らの足で立つこともできなくなった裸の少女が残されました。少女は這いずるように、銃殺された母親の死体に身を寄せたそうです。
あるドイツ人一家の悲劇
エリックには美しい妻と、9歳と11歳の二人の娘がいました。
一家は、ベルリンから逃亡中にロシア兵に捕まりました。母親は娘たちを守ろうとしましたが、殴られて意識がもうろうとした状態でレイプされました。
その後、一家は牧草地の近くにあるキャンプ場に連れて行かれました。
牧草地には30近くの野営テントが設営され、そこに連れて来られた女性たちは、ひっきりなしに出入りするロシア兵に犯され続けました。
女性たちは体が汚れると、近くにある湖に行って、衣服を洗ったり、体を洗ったりすることを許されました。
レイプは夜通し続きました。朝、満足したロシア兵たちは去っていきました。
エリックが目を覚ましたとき、彼の隣には、壊れた人形のようになった全裸の妻と二人の娘が横たわっていました。
エリックは自家製のナイフで妻の手の静脈を静かに切りました。
それから娘たちを殺し、彼自身の静脈を切りました。エリックは近くの湖を見つめながら、自らの人生がゆっくりと閉じていくのを待ちました。
幼い少女までも犠牲に
悪名高い事例の一つとして、赤軍の兵士がハウスデーレムの産科病院に入り、妊娠中の女性、出産直後の女性、出産中の女性をレイプしました
教皇パウロ六世は、ベルリンでは修道女でさえ強姦されたと嘆きました。
KGBの前身であるNKVDを運営していた男性によって、100人以上の学齢期の少女と若い女性が薬物を投与され、レイプされました。
二十回連続でレイプされた女性もいます。彼女の唇は青く腫れあがり、ブラウスは引き裂かれ、乳房はすべて傷ついて噛まれた痕がありました。
基本的にロシアの兵士は、ふくよかな女性を好む傾向がありました。
ただロシア兵がどんどん女を連れていくので、十分な女性がいなくなり、12歳や13歳といった年端もゆかぬ少女を連れて行くことが増えました。
憎悪と攻撃性を増す役割を果たしたのが彼らの飲むウォッカです。少女が泣き叫んだら、彼女たちの穿いていた下着を口に押し込みました。男たちは楽しみながら、幼い子供をレイプしたのです。
病院に連れて来られた小さな女の子は「彼らはここをつついた」と、スカートを持ち上げて説明しました。「二十人以上の男に突かれた」そう言って、彼女は急に泣き出しました。
会陰が肛門まで裂けていた10歳の少女は、病院で縫合しなければならなかったとカルテに記録されています。
インゲボルクの告白
空襲の最中、若いドイツ女性・インゲボルグは地下室を出て二階に走り、ランプの芯として使用する紐を探しました。
「突然、二人のロシア兵が家に押し入ってきて拳銃を私に向けたのです」と彼女は言いました。
「彼らのうちの一人は私に裸になるように強要し、私をレイプし、それから彼らは場所を変え、もう一人も私をレイプしました」
インゲボルグは当時、またはその後、数十年間、彼女の試練について話しませんでした。
彼女はそれが難しかったと言います。なぜなら「母には、自分の娘が純潔を守ったと信じてほしかったのです」。
女性たちの防御策
まもなく女性たちは、ロシア兵たちの夕方の「狩猟時間」の間に姿を消すすべを学びました。若い娘たちは何日もつづけて屋根裏の倉庫に隠れました。
母親たちはロシア兵が二日酔いで眠っている早朝を狙って、街路に水くみに出るようにしました。
一部の女性は、暴力から逃れるために屋根の上に数週間、住んでいました。
ときには、ある母親が自分の娘だけは助けようとするあまり、よその家の娘たちの隠れ場所を教える悲劇も起こりました。
ロシアの女性兵士にはどう見えたのか?
ロシアの女性兵士でさえも、レイプを認め、おもしろがって見ていた人もいたそうです。
赤軍の兵士たちは、敵に対する一種の復讐として、ドイツの女性を大量レイプしました。彼らはドイツ軍が祖国を「侵害した」ので、そうすることは権利であると感じていたからです。
実際、ロシアの国土はドイツの侵略によって荒廃していました。憎悪と復讐心の塊であったロシア兵たちは、同じ女性だからといって同情することはまったくありませんでした。
また、生きのびたドイツ共産党員が、ロシア兵を歓迎したところ、その妻や娘までも赤軍兵士にレイプされたこともあったそうです。
ドイツの女であるというだけで、共産党員であってもレイプの対象にされたのです。
ドイツの男たち
ドイツの男たちは、命懸けで自分の妻や恋人を守ろうとしたのでしょうか?
実際は、ごく少数の例を除いて、男たちはただひたすら怯え、隠れるだけでした。
自分の妻がロシア兵に犯されると、彼女たちの裏切りを非難した人も多くいたと言われています。
この悲劇は、ただでさえ傷ついたドイツ女性たちの心をさらに深く傷つけ、多くの誇り高いドイツ女性達が自ら命を断ってしまいました。
誇り高いゲルマンの血筋、ドイツ人がロシア兵に汚されたという事実は、想像を絶するほど耐えがたかったと言われています。
ロシア兵が去った後のドイツ
ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は、9万5000ないし、13万人と言われます。
ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万人の女性のうち、死亡した人が1万前後、その多くは自殺でした。
ドイツ全体で少なくとも200万のドイツ女性がレイプされたと推定され、くり返し被害を受けた人も、過半数とまではいかなくても、かなりの数にのぼりました。
結果として生まれた「ロシアの子供たち」の数は不明です。
しかし、ほとんどのレイプは妊娠をもたらさず、犠牲者に出産させませんでした。ドイツは比較的医療が進んでいたので、強姦により妊娠した子供が相当数「堕胎」されたと言われています。
当時のドイツ刑法の第218条によると、妊娠中絶は違法でしたが、集団レイプの特別な状況のために、役所にこれらの女性のための「特別窓口」が設けられました。
残っている記録では、1945年6月から1946年の間に、合計995件の妊娠中絶の申し立てが、ベルリンの地区事務所によって承認されました。
ファイルには、子供っぽい丸い手書きで、小さな女の子が、彼女の両親の前で、家の居間でロシア兵に犯された状況が克明に記されていました。
病院の報告によると、ドイツのすべての病院で中絶手術が毎日のように行われました。
問題は、6か月目まで進んだ妊娠の問題でした。場合によっては、7、8か月目に入っていることもありました。この堕胎はもはや不可能でした。
ある看護師は、レイプ被害者の女性に、出産後の子供の世話をすることを約束しました。
ですが、その女性は出産後、病院を出て、病院のすぐそばを流れる小川で子供を溺死させてしまったそうです。
ロシア兵の子供を産んだ妻は、夫から見放され、シングルマザーが相当増えました。
生まれた多くの子供たちは、戦後のドイツで飢餓の拡大、物資の不足、そしてチフスやジフテリアなどの病気で亡くなりました。ベルリンでの乳児死亡率は90%に達しました。
以上が、第二次大戦末期、ベルリン陥落で起こった悲劇の詳細です。
なお後日談として、多くのロシア将校が、ドイツに占領地妻を抱え、帰国した際、ロシア国内にいた妻の憤激を買ったそうです。
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